■コンドル流透明水彩画考

■独学で自分なりに暗中模索しながら少しづつ見えてきたことがあります。それは私自身が実際に経験してみて確信を得たことでした(勘違いや思い込みもありましたが)それらをエッセイ風に纏めたものが↓あります(↓リンク)もし興味のある方は一度覗いてみてください。昔のHPですので多少観にくい点があることをご容赦ください(__)    その中の一部を転載しました。 

■全ての芸事は「百門百伝」と言われるくらいに 表現手法が作家によって違う。その違いが作風(個性)となり、それぞれの考え方が土台となって独自の持論を様々に展開するものだと思う。
微力ながら私も約40年間、多勢の人達に透明水彩画を指導してきたが、今改めて実感することは教えることは自分で描くよりもはるかに難しいことで、故に「教えることは二度学ぶ」にも通じることになる。
本編では自らが暗中模索しながら辿り着いた透明水彩画的日常を折に触れて書き綴ったエッセイである。興味のある方は下のリンクへお回りください。

コンドル流水彩画講座 (biglobe.ne.jp)

■文字ばかりのページですが、外部rink先で編集してあります。

100色の無駄

■私はよく人様に自分の絵の説明をするときに『3色だけで描いてます』と言う。
確かに色数は沢山使わないのは事実だが、けっして本当に絵の具が3色しかない訳ではない。正確に数えたことはないが、各メーカーを合わせると100色以上は常に手元にあり、それをフルに使って描いている。3色で描いたように見せる為には、どうしてもそれだけの絵の具が必要なのである(実際に全部使うわけではない)
筆も大小数十本あるが、使うのは2~3本で後は殆使わない。では必要ないものが何故有るのか?つまりこれも陰で支える為の控えに必要なのである。無駄でも、気休めでもなく車のガソリンの様なもので、余裕が無ければ目一杯に走れない。残りを心配したり、無理をして誤魔化さないためにも『余分』『余力』が有るのと無いのとでは結果に大きな違いが出るのである。贅沢といえば贅沢なことかも知れないが、この一見無駄のような贅沢こそが大事なのである。
但し、そうしなければ絵が描けないわけではない。私の言いたいのは、そんな気持ちが微妙に描く作品に現れるから、絵を描く環境が(道具も含めて)大事であることを言いたいのである。
また絵を描く為の考え方や取り組む姿勢のことを言いたいのである。
例えばたかが、20分足らずの夕焼けの一瞬を描くために私は離島まで往復数日をかけて出掛ける。ただそれだけの為に大半が無駄の様に見えても、その無駄が無ければ描く事が出来ず、結果的には無駄ではないのである。
限られた色数で描くためにも、その何十倍の絵の具が必要で、無いから使えないのと、有っても使わないとでは全く意味が違ってくる。たとえ明日食べるものが無くても、作品を描く為の環境だけは万全に整えておくことがプロではないかと思っている。
これが私の透明水彩画に対する基本的な考え方である。
【講座実践編其の15~転載】

もうひとつの世界

■静物画には風景にない要素が幾つかある。
そのひとつが主題の周りの空間(バック)である。
読者の中にはこの処理に悩まされている方も多いのではないだろうか。
折角の絵がバックによって台無しになってしまったという経験は誰にでもあると思うが、このバックはモチーフが立つべき『舞台の背景』のようなもので大変重要なのである。
目立ち過ぎても、意味が無くても背景にならず、処理を間違えると折角の役者(主題)も台無しになる。便宜上『バック』とは言っているが、それを『奥行きをイメージさせる空気感』と私は呼んでいる。これに成功すると何を描いても画面上にものの存在感が生まれるのである。
つまり、卓上の静物画の場合は画面の前方から奥へと向かう空間が必要で、それは単なるバックではなくまさしく『空間』でなければならない。
透明水彩画の大事なポイントは、描いて前に前進させるのではなく、描いてもなお奥に引っ込める為の計算が必要で、その役割を果たすのが背景なのである。ところがバックの空気感といっても何等かの色を塗らなければならないが、そのときに例えば天井に有る(或いは窓から差し込む)光源を何色にするかを考えると決め易くなる。その放つ光の色で辺りの空気が同じ色に染まるはずで、当然モチーフ本体にもその光の色は微妙に反映され、それが画面全体の『基本色調』へと繋がっていなければならない。
デパートのショーウィンドに当てられる照明は、より商品が良く観えるようにと計算されている。風景画には存在しない無いこの静物画の『背景』は二次元上に、三次元(奥行き)を表出させる為の重要な役割を果たすものだと理解すればよい。
つい後回しにされがちな背景だが、その結が果単なる塗っただけの壁のようになったり、或いは色の付いた紙の上に主役を切り抜いて貼った様になってしまっと空間にはなりえない。

風景画を専門にする筆者が偉そうには言えないが、描く対象(世界)が限定される静物画であっても、また反対に無限に広がる風景であっても一番難しいのはその場を取り巻く周りの見えない空気である。それを如何にそれらしく現すかが最大のポイントで、卓上に置かれた静物であっても、風景の一部として捉えることが出来たなら、たとえ一輪の花でも空気感を持った『存在』として表現出来る。形を形として描き、見えないものは適当で済ませられるのなら、絵を描く我々はなんの苦労も工夫も要らない。曖昧で厄介な部分を何とか具体的に表現したい・・・その為に私は絵を描き続けている様な気がするほどである。

【講座実践編其の22~転載】

水彩画に拘る

私は透明水彩画しか描かない、描かないというよりは『描けない』と言った方が正しいかもしれない。かれこれ30年近く透明水彩画だけを描いてきた私だが、我ながら感心したりするのである。これだ!と決めるまでの若い頃から色々手を付けたと思われるかも知れないが、私は他の仕事は全く知らない。よく油絵を描いていた人が、水彩画に転向される場合があるが、私は油も触った事すらもない。つまり、無謀にもいきなり水彩画(それもガッシュではなく透明水彩画)から始めたのである。以来40年間飽きもせず他の分野の浮気もせずに今日までやって来た。あれこれと迷うことが無かっただけに、人様よりは多少スタートが早かったかもしれないと思ったりもする。
『拘る』・・・勿論惰性や、保守的であってはならないが、私は一芸とはホームペース(基盤)を確保出来てのことで、もしそれ以上の余力(余裕)が有るのであれば他芸にチャレンジするのもよいのかもしれないが、それが例え旺盛な意欲に見えても最期に到達すべき目標が無いままでは単なる脇道の気まぐれに終わるように思う。それは”二頭を追うものは一頭も得ず”とのことわざの通り。
透明水彩は確かに難しくて、他の仕事の方が表現の幅もあり面白そうだと思案したことも過去にはあった。しかし『もしもここで違う方向に進んだら、今までの事は何だったのか?何をやっても結局は同じで、困難な壁もあれば、誘惑の声は聞こえる。その度毎にふらふら迷っていては何一つ自分のものにはならない』と思った。以来私は馬鹿の一つ覚えの様に、透明水彩に拘り描き続けて来たのである。その事が良かったのか、間違っていたのか・・・自分では分からないが、少なくとも限りない未知への挑戦の魅力は未だに色褪せていない。故に他に目を向ける余裕など全く、この透明水彩画という世界は自分にとって間違っていなかったと今も思っている。『簡単に出来た!』と感じてしまう程度のものなら、拘りなど持てる訳がなく、徹し切るパワーも出てこない。

趣味で楽しみで絵を描いている方々に対しては、水を差す様な話で申し訳ないが、自分が食べる好きな好物は、コレだと言い切れるものを持たないと、結局長く継続が出来ず趣味の域から何時までも出られないと思った方がいい。あれも食べたい、これも美味しそうだと食道楽になると結果は『肥満』となるだけである(笑)
立場こそ違っても、我々は食べる側ではなく作る側なのである。自分が食べて美味しいと思えるものこそ人様にも出せるのである。そのためには徹して自分の味覚を信じる以外にはない。
だからこそ高級な料理にもなるのである。これは絵を描く事と全く同じ道理ではないだろうか。最初は色々なことをやってみるのも無駄ではないが、自分も作りたいと思える料理に出会ったなら、後はその道に徹して邁進する、そうすれば必ず独自の味が出せるはずである。                     【講座実践編其の16~転載】

一枚写真と手紙

それは某美術団体の記念展と称する作品図録の中にあった審査風景だった。
居並ぶ委員が一点の方向を見て全員挙手をしている集合写真。何でこんな場面を・・・
『貴方の作品はこの様に審査されているのですよ』と言う意味なのだろうか?ニヤケて笑いながら写るこの集団の横柄な姿に私は品位の無さを強く感じた。他人の作品をこのような権威(?)の輩に審査されているのかと思うと、部外者ながらも唖然とした。
恐らくこんな光景はどの団体でも行われているに違いないが、一人の描き手が心血を注いで描き上げたであろう作品を通り一遍(僅か数秒間観ただけ)で当落を下す資格が彼らにはたして有るのだろうか。他人が一方的に評価を下すことはどの社会でもあることで、それも承知で励むのならそれもよし、私があれこれ言うべき立場ではないとは思うけれども、それでも敢えて言いたいのは、それならそれでもっと真摯な態度で襟を正してその任に当たるべきではないのだろうか。一会派のどんなお偉い先生方か知らないが、あんな写真を掲載して善しとするようではその団体の品性を疑い『権威主義』や『派閥主義』の温床と化している集団に何を期待出来るのか?皆で通れば怖くない・・・そんな囁きがヒソヒソと聞こえてくるだけのような気がする。日本の美術界の現実が全て同じだとは言い難く、また私自身の偏見も加わっているかもしれないが・・・。

ある在阪の『〇〇展』の審査委員を勤める某氏の話を聞いてみた。一般公募で寄せられた作品の当落はどのようにして決めるのか?と氏曰く、二年毎の当番制の16~7名の委員の過半数の手が挙がると『入選』になるという答えだった。その間わずか数十秒だが、結構疲れるので早く辞めたいと漏らすなど、その言葉の中には後継の育成などという純粋な情熱は全く感じられない。日本の美術界最高峰の団体にして中味はこでれだからもう仕方ないと諦めるしかないのか。。。私はこんな疑問を感じる時一人の孤高の画家を思い出す。
この画家の書簡が公開されてそれを読めば一人の絵描きの胸を打つ真実の叫びが聞こえてくる。もし興味のある方はコチラも是非ご覧ください<(_ _)>

上手過ぎるという評価

「過ぎたるは及ばざるが如し」という古いことわざがある。
「良く出来ているが隙が無くてちょっと上手過ぎる」という絵の評価を耳にする事が有る。
上手すぎて何処が悪いのか?贅沢なと一見思うのだが、これには深い意味合いが込められていると思う。勿論その作品は誰の目にも申し分なく完璧な出来栄えで素晴らしいが、完璧”過ぎるが引っ掛かるらしい。その意味する域は常人(凡人)のそれを越えた時限のことでも、なんとなく解るような気もするのである。当然言われた側もけっして賛辞ではないということが薄々気が付くものだ。

似たような言葉で「作家は褒められるとおしまい」ということも、どうやらその意味と同じらしい。文句のつけようが無くなると、可能性も見出せず期待感も薄らぐということか。。。
そんな訳ないだろう、死ぬまで研鑽するのが作家のはずで、完璧なんてありえない!と誰しも思う。しかし、表現の世界では一見そう思える程の実力者が確かに居るのも事実。
では何故上手すぎると一体何が困るというのだろうか?どうやらこれには技術と内面とが拘わっているように私は思えてくる。人間の中味は第三者には解らない。相撲の世界では『心・技・体』と言い、あの武芸者の宮本武蔵は武道殺戮の果てに自らの往き方を仏道に求めたと言う。共にキーワードとなるのが『心』つまり描き手の中味が問われているということではないだろうか。目にも見えず、耕す術も解らないこの抽象的な部分が、忘れ去られていたりするとただ”上手いだけで訴えてくるものが無いという酷評となって表現されるのかもしれない。
俗に人は上手い達者と言われると、そこに自惚れや慢心が生じるものでのよく在る話、これが何時の間にか精神の荒廃へと繋がり、表面の上手さだけが目立つ結果になるのではないだろうか。当然ながら其の程度のことは、筆者でなくてもみんなご存知な訳だが、如何せん自分の心の在様はなかなか自覚出来難い。だからこそ大事だとされる由縁ではないだろうか。達者過ぎる危険性というものがもしあるとすれば、それは自分自身の中にある?
完璧な技や才能を発揮出来る者が最期に越えなければならない壁は、恐らく本人にも見えないのかもしれない。ある老域の画家が『これから如何にしてコレを壊せるかが課題だ』と語っていたのを思いだす。壊す・・・崩す、或いは汚す・・・筆者如き稚拙な者にはこれらの意味することなど到底解らないまでも何かそこに真実の美しさとは表面的な整った美しさではなく、もう少し違うところに在ると自身が悟ることではないかと思うのである。それは理屈でもなく、言われて気付くものでもない。言わば登山家が最期の壁に挑む精神のようなものかもしれない。保身が強かったり、臆病であれば到底昇れない精神の壁・・・それがないまま技量のみで昇ろうとすると(昇りつめたと思うと)先の『上手すぎる』という酷評価に結びつくのではないだろうか。
上手いと褒めて貰えず、下手で賞賛されるという訳の分からないこの世界である。突き詰めると訳がわからなくなって「そんなことどうでもいいわい!」と言いたくもなり、また、筆者などは一度でもいいから『上手すぎる』などと言われてみたいなどと考えたりする(笑)
次元が違うと言葉の意味まで違ってくるのか凄い世界だと他人事みたいに言える私はまだまだ気楽でいいなあーと、喜んでよいのか悲しんで良いのか情け無いような実感を持ちながら、自分は自分で今在るところで頑張る以外には無いとひとり納得したりするのである。

達者ほど 厳しき評価は自らが 下して昇るゼロの地点へ

【講座寄り道編其の24~転載]

職業病

■私の知り合いの中には建築関係の仕事をしながら絵を描いている人が結構多い。
(一級建築士であったり、園芸、インテリア関係であったり)
物事を緻密に計算して形のあるものを創り出すことから、その感覚的な部分を含めて彼らが描かく絵は何故か垢抜けした作品をが多い。当然ながら建物などは専門分野で水を得た魚の如く構造的にも、見せ場も心得た技量に感嘆させられるのである。
その中のお一人とある時お話をしたところ・・・
「私は本当は絵描きになりたかった、しかし絵では食えないので建築の道に進んだ」と仰っていた。現場の第一線から退き、今は本来の好きな事が出来て満足そうでもあった。
素人ながら思うには、本来理論的に作業を構築するのが建築の仕事であるなら、絵画というものは、曖昧で且つ自己の感性を信じて、お客(クライアント)の要望など聞く必要もない。
この違いを切り替えて、それなりにものにしている人には感心させられるのである。
職業柄建物などは特に「しっかり」と描かれていて申し分がない。立体を平面に再現する事など何の苦労もいらない様に見えるのである。我々なら街中のビルや古いお寺などを描くときは、その細かな作りを観ただけでウッとなるが、彼等は見なくてもある程度描けてしまうのである。
だがそこで私はふと思った。
慣れで描く、それは一種の『職業病』ではないのか?確かに経験から来る巧みな見せ方を心得ているが、絵画は建築パース(完成予想図)とは意味が違う。美しく格好よく描く事はそれはそれで素晴らしいことにはちがいないが、その前提には作品から語り掛けてくる「何かが」なければならないと思うのである。過去の経験を後の仕事に生かすことはけっして悪くはない。しかしそれが抜き差しならない職業病化すれば逆にマイナスとなる場合もある様に思う。
描けなくて悩む人も有れば、描過ぎて人知れず悩む人も私は両方知っている。どちらの方が大変か一概には云えないが、ハードルが高ければ使うエネルギーもその分大きく必要になるのは当然である。
その道のプロがかかる病気。それは本人の意識とは関係なく何時しか身に着く癖・習性の様なもので、それが良くも悪くも職業病。歯科医が人の歯ばかりが気になり、花屋は他人の庭に自然と目が向くのと同じである。その知識や経験は強い武器であると同時に、自己の足かせにもなる表裏一体の関係ではないだろうかと思う。私如きがあれこれ論じるまでもなく、当の本人がどの様に理解しているのかに尽きると思うが、先の方がいみじくも言われていた「何とか崩したいがなかなかそれが難しい」という言葉が印象に残る。
病気と云えば御幣があるが、私もそんな意味の病気のひとつやふたつ持ち合わせているし、個性とはその病的な部分にこそあるのも確かだと追記しておきたい(笑)
【講座寄り道編其の19~転載】