■卓上の静物たち

■風景画を専門にしているので、それ以外のものは基本的にはあまり描かないが、室内の教室等で指導する関係上そうとばかり言ってられない。しかし、私は風景を描いていても、その対象の前後には人の営みや、囁きが聞こえそうな場面を探している。ただの綺麗な観光地的な作品は描きたいと思わない。それはたとえ花一輪にしても同じように眺めて描いている。つまり、卓上の花であつても、私には風景の一部に見えるのである。またそうでなければならないと思っている。手当たり次第にただ描いているのではないことも、解って頂ければ幸いである。

■其の①花
花菖蒲

いろはにほへどちりぬるを・・・

ダンスパーティー(ドライの額紫陽花)
■左近の紫陽花
■右近の紫陽花
秋明菊
ベゴニア
山茶花
額紫陽花
曼殊沙華
紫木蓮

訪問者
段 菊

紫木蓮

■琵琶の実

■花屋さんの豪華な花もよいけれど
路傍の隅に咲いてる小さな花が自分の性には合っている

もうひとつの世界

■静物画には風景にない要素が幾つかある。
そのひとつに主題の周りの空間(バック)がある。
但し、この場合は室内の一角にある静物ではなく、あくまでも卓上に置かれた物ということで実はこれは描くモチーフが立つ『舞台背景』のようなもので大変重要である。目立ち過ぎても、意味が無くても背景にはならず、この処理を間違えると折角の役者(主題)も全部が台無しになりかねない。私はそれを『奥行きをイメージさせる空気感』と呼んでいるが、逆にこれが成功するとなにを描いても画面上に存在感のある作品が描けるはずである。
画面の前方から奥へと向かって引っ込まなければならない空間が必要で、それは単なるバックではなく『空間』なのである。透明水彩画(他の仕事でも)の大事なポイントは、描いて前に前進させるのではなく、描いてもなお奥に引っ込める為の計算が必要ではないかと思う。ところがバックの空気感といっても何等かの色を決めて塗らなければならないが、そのときに例えば天井に有る(或いは窓から差し込む)光源を何色にするかを考えると決め易くなる。その放つ光の色で辺りの空気が同じ色に染まるはずで、当然モチーフ本体にもその光源の色は反映され、
それが画面全体の『基本色調』へと繋がっていなければならない。デパートのショーウィンドに当てられる照明は、より商品が良く観えるようにと計算されているのも同じである。

では風景画には存在しない静物画の『背景』とはなにか、                二次元の紙の上に、三次元(奥行き)を表出させる重要な役割を果たすものだと理解すればよいかもしれない。主題に囚われてそれが後回しにされがちな背景が、もし塗っただけの壁のようになったり、色紙の上に主役を切り抜いて貼った様になってしまった経験は誰にでもある。 風景画を専門にする筆者が偉そうには言えないが、描く対象(世界)が限定される静物であっても、無限に広がる風景であっても、一番難しいのはその場を取り巻く周りの見えない空間であり、それを如何にそれらしく現すかがポイントだと思っている。卓上に置かれた無機物な静物であっても、風景の一部として捉えることが出来たなら、たとえ一輪の花でも空気感を持ってそこに『存在するように』伝わるのではないかと思うのである。

いささか回りくどい言い方になってしまったが、要は自然な実在感を一枚の紙の上にあらゆる要素を駆使して描く、それが絵を描くということなのだ。そしてそれは意外と見落としがちな分部にこそ有る様な気がするという話なのである。

【講座実践編其の17~転載】

蘭 舞
クルミと青いポット

卓上静物其の②

珍しい物を描く

■私が作品を描くとき最も大事に意識することは「品の無い絵は描かないようにする」である。抽象的ではあるが、下品で卑しい粗雑な作品は客観的に観ても気分が良くない。勿論絵描きたる者がそんな作品を描こうとするわけもなく、結果的に本人の内面が無意識に現れるものだと思う。実はその事が一番怖いことなのだ。かといってわざとらしく格好つけても所詮は表に現れる。では一体どうすれば?所詮は感覚的な部分で答えなど探してもない。たとえ身は世俗の埃に塗れても精神の気高さだけは凛として持ち続けたい。                   それが私流儀の絵描き道だと思っている。
■商品にならない野菜たち