■コンドル流透明水彩画講座

■寄り道編[その1]

俗ぽい喩え話になりますが、絵描きのたわごと程度に読んで頂ければと思います。
水彩画とは直接あまり関係の無い事柄の様でも、これが意外にそうでもなくて、読者も頷いて頂けるのではないかとも。。。。40年もこの世界で多くの人と関わり、或いは遠目から観察をして(自分への自戒の意も込めながら) 綴っています。

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■十八番という名の落とし穴■

展覧会に出掛けると、アレこの人は去年も同じ様な作品を出展してた?と思う様ことがある。
シリーズで描いていると言えば聞こえはよいのだが、なにかそこに消極的な不安感を見てとれる。
前回と違うものを出したら初出品と勘違いされて落選するとか?一般ならいざしらず、無審査のお偉い先生のなかにも、十八番の得意な画題で毎年並んでいるのは如何なものか。そんな絵を観ている人が小声で・・・「この先生は去年も同じようなものを描いてた」と聞こえると、喜んでられないと思うのは私だけだろうか。
人ごとでは毛頭ない訳で私とて描きたいテーマはある。だがそれに安住してしまえば惰性が始まる。
だから常に少しでも新たなものを求め続けたいと思う。傍目を気にして、無難なものを描いて、それを独自の画風(テーマ)と摩り替えてしまう落とし穴が、静かに口を開けて待ち構えている。それが美術界の様に見えてしかたがない。幸いなことに私は無所属で誰に気兼ねも遠慮もいらないが、それでも「慣れ」を厳しく律していたい。

■器用貧乏のチャンコ鍋■

それでも食べたら美味しければいい(笑)趣向の範疇で他人がとやかく言う筋合いでもないが・・・
だが私は寿司屋では寿司が食べたいし、ラーメンはラーメン店で食べたいと思う。
拘りかもしれないが絵も同じで、透明水彩は透明水彩でありたい。
表現は何をやっても自由とは言え、純然たる本来のあるべき良さを大切にしたいと思う。
道幅の限られた道であっても、その先きを極めたいと非才ながら願っている。
遊び心で、今日はたまに違ったものを食べてみるというのは有ってもよい。結構気分転換にもなるものだ。
しかし、よく油絵も描けば水彩も描くと何でも器用にこなす人を見かけたりするが、私にはとても真似が出来ない。それぞれのジャンルの良さをそれなりに器用に扱う技が本物なら鬼に金棒かと思いきや、そうじゃない。
試行錯誤の段階であれも、コレモと研究してみるのは理解が出来るが「これぞ我が本命」と言えるものを
確立出来なければ、それは単なる器用貧乏になりかねないと思ってしまうのである。
マルチ社会で守備範囲を広く持つ事はそれはそれで良いのかもしれないが、何となく迫力に欠けはしないかと
勝手な心配をするのである。それより不器用でもいいから、とことん拘ってひとつの事を極める方が人間臭くていいのでは?過去幾多の先人達が残した足跡をみれば明白なように思えるのである。

■美人の嫁さんは三日で飽きる・・・

別に女性軽視の発言ではない、あくまでも絵の話であると前置きしながら(笑)
絵を描く方はすでに経験されているとは思うが、このことはよく問題になる。絵はアートである以上は当然美しくなければならない。例え描き手がどのような表現手法を取ろうとも、また何を主題(テーマ)に描いても、美しさが感じられなければならないと私は思っている。〔但しその感じ方は人それぞれの美意識の違いがある〕では単に綺麗なだけで良いのかと言えば、やっぱりそうでもない。作品には作者の何等かの思い(メツセージ)が有って、それを観る側に伝わってこなければならない。黙って座って笑っているだけの美人・・・それはそれで素晴らしいことなのだが、敢えて言うなら、個性のある顔いや、少し規格外れの方が、インパクトがあって何時まで見ても飽きないで楽しいかも?絵も同じではないかと思うのである。
なら綺麗過ぎて何故悪い?・・・別に悪くはないのである。だが出来ことなら・・・美人でもなお人をひき付ける魅力を会わせ持つとそれこそが一流の絵師が描く作品ではないだろうかと言いたいのである。良い作品とは何回観ても鑑賞に堪え、その都度受ける印象さえも違うと言うが、それが飽きないことではないだろうか。
私など他人はおろか、自分で描き上がらないうちから飽きてしまう・・・なんとも情けない話である(笑)

■上下逆さまの抽象画

前衛、抽象、アブストラクト・・・これらを総して「現代美術」というらしい。
昔聞いた話で(真意の程は分からないが)ある某美術団体の展示作品の一点が上下逆さまに飾られ、それを誰も気付かず公開されてしまったらしい。。。嘘のような話だがあり得ることで、それほど理解しにくいのがこの種の作品なのである。また別なえぴそーどでは、個展会場に作品を一点も展示せず、何も無い部屋の空間だけを観せるという作家が居たらしい。作家は芸術の究極は「無」と言いたかったのか?その真意は定かではないが、コレもどうもおかしい。猿に絵を描かせた画商もいたなどと言う話が出てくると、これはもう笑い話にもならない。

自己満足の世界と言われれば、私とて同じかもしれないが、少なくとも私のやる事では何の話題にもならな(笑)
いたって平凡で地味な仕事を続けている私が他人の事を批判する資格はないが表現の自由とは一体何かと、ここでまた考えてしまうのである。
作者と鑑賞者の双方に何等かの合意の規範の上に成り立つものではないかと私は思う。周囲の批判を覚悟で行動する勇気(狂気)を全て否定をするつもりではないが、自己中心の独善は社会通念からもよくないのではないかと。
責任の取りようがない行動は個人であれ、団体であれまた、いかに芸術家といえども許されるものではなく、厳に慎まなければならないと私は思うのである。
作品の感じ方や観方は個々それぞれの自由で、好き嫌いも当然あってその事を否定するつもりは毛頭ないが、少なくとも広く公開する限りは無責任だと謗りを受けることは避けるべきではないだろうか。恐らくそれは抽象や現代美術を思考する作家であろうと、自身の美学に誇りを持って何かを問いかける作業であっても、その主張の中味に共感されるるかが第一義の命題であるはずだ。ただ奇を狙うだけのものや自己満足でもなく、やむにやまれぬ魂の叫びであり、その根底には自他共に人を愛する優しさの表現であると私は信じたい。限られた愛好者のみを対象にして、後は「素人には自分の芸術など理解出来ない」と切り捨てる・・・それが人に優しいと言えるのかと疑問に思えてしまうのである。                                        理解に苦しむ現代アートをさも解かった様なふりをしなければ、自分の値打ちが下がるかのように思ってしまう のも滑稽な話で、解らないものは解らないでいいのである。芸術に限らず表現の自由は、発する側とそれを享受する側双方が護られなければならない権利である。そしてそれは社会秩序の中にあってこそ成立する。ただでさえともすれば独善的に陥りやすいこの世界では、よほど慎重に自身を律することをしなければ、ミイラ取りがミイラになってしまう。

■いささか内輪話だが・・・

誰に聞いても「絵は楽しいから描く」と答える。確かにその通りで、私もその一人である。ところが同じ事でも「目的」が違うと若干中味も違ってくる。同じ言葉の表現でも意味が違う場合もよくある。
私は生活の為に絵を描いているが、その好きな事が苦労の種になり厳しい日常の現実にもなる。よく言われることだが、今の日本の現状はいたって絵描きには住み難い。それなのに五万と絵描きが居て(笑)あの手この手と、それこそ生存を賭けて奔走している。(どの世界(業界でも同じかもしれないが) ある親しい老画家と懇談した際に、こんな話を聞いたことがある。個展回数50数回を数えるその画家が、「田舎で唯一の某デパートで個展を開いたら作品がよく売れた。チラシに店名が入るだけで集客がちがう」とか。
また別の作家は、自己の作品評定価格として某年鑑にとてつもない値段を掲載していたのを見て、驚いた事もある。派閥・人脈入り乱れての公募団体がひしめき合い、それに群がる絵描きや業者が後をたたない。何処かおかしいがよく見聞きするので間違いでもなさそうである。そうでもしなければ、成り立たないという厳しい現実があるから仕方がない。故に上記の諸氏を非難することも出来ない。
処世術にはいろんなパターンがあってよい訳で他人がとやかくいう言うべきではないが、先の80歳の老画家が私にしみじみと・・・「この歳になるまで、好きな絵を描き続けられた事が一番幸せだった」という言葉が今も印象に残っている。妻子と共に苦難の中を絵描きとして貫いて来られたその顔は満足そうに輝いていた。

今これを読んでいるあなたが今後どんな過程を経られるのか解らないが、楽しい事は楽しいままで過ごせる事が何よりで、一線を越えてしまうと、同じ事でも全く違う世界になることを知って頂きたいと思うのである。
以前に私と同年輩の日曜画家に、この機会に会社を辞めて絵一本で・・・と相談されたことが有る。私は即座に「そんな無茶は止めなさい」と諌めた。心情的に理解出来ない訳ではないが、敢えてその危険な一線を越えなくても絵は充分描き続けるられるのである。縛られずに好きな事を自由にやっていきたいという心情も分かるが、あれこれと善からぬ計算をする分、純粋で居られる様な気がするのである。

■遺書を書く

体力も無く、方向音痴で、貧乏で・・・誰の事かと言えば私のこと。
こんな私がたった独りで北の大地を放浪する。だから長期に出掛けるときには残った家族宛に”遺書”なるものを置いて出掛ける。そんな大そうなことと思われかも知れないが本人いたって大マジメなのである。
何時どこで何が起きるか分からないご時世。財産分配の仔細など毛頭書いてはいないが、出掛けるのに際して、それなりの腹を決めたいとの思いからなのである。物見遊山の気楽な旅ならよいが、そんなわけには行かない。
足元悪く危険な場所にも立つこともある。躊躇するとせっかくの獲物を逃す結果になる。「遺書」それはあるとき無鉄砲な意志の表れかもしれず、またあるときは明日へと繋げたい執着の証かもしれない。
幸いなことに開封はいまだされずに20数年が経った。色褪せた封筒を見て家人曰く「もうそろそろ中味書き換えたら?」と呑気に言う。。。

■甘い囁き

別にこれは夜道を注意する標語ではない(笑)
読者の皆さんの中には、こんな経験がないだろうか?
どこでどう聞きつけたのか、ある日突然に某美術系の出版社から何やらお誘いの電話が掛かってきたこと。
どうやら以前に出品した公募団体の図録名簿から手繰り寄せてのコンタクトらしいのだが、その中身に笑ってしまう。「先生のお作品を是非わが社の○○年鑑にご登録頂けないでしょうか?」」とかなんとか言ってきたり、或いは
「某展に招待作家として是非この機会にご出品をお願いしたいのですが」などという場合もある。趣味と割り切っている人なら良いが、熱心に頑張っている人は案外この手の輩には引っ掛かったりする。言うまでも無く相手は金儲けが目的で、「付きましては賛助金として・・・」とか掲載料という名目でおもむろにいくらかを要求するのである。人は名誉や活字に弱い。まして絵を描く者は評価には特に弱い。そんな心理につけこんで、勧誘しょうとするその道のブローカー達が画廊や美術館を俳諧して、それらしきカモを探しているのである。時には美術記者を名乗って、取材と称して自宅に尋ねて来ることさえある。「取材」などと言われると、大抵の者は舞い上がってしまう(笑)
幸いなことに筆者はまだ被害に合わなくて済んではいるが、そのような甘い囁きは過去何度も経験したので、何かの参考にでもなればと思い記した次第である。念の為に申し添えると、この類の関係者が全てそうだとは限らないので、あくまでも私が実際に経験をした範囲でのことである。
要は変な欲を出すと落とし穴に落ちる。それは世の常で、この世界(美術界)も例外ではなく裏を返せば何が潜んでいるか解らない怪しげな世界なので用心するにこしたことはない。全てそうだとは言わないが・・・一様公募展としながら、その実は画材メーカーや運営役員と称する幹部達の金集めだったりもする場合いもある。或いは、我が派閥を拡大する為に「是非うちの会に出品を」という誘いなどもあったりする。
根拠なく褒められる処にろくなことはないし、必要以上に名誉云々すると、大切な他のものを見失いかねないという話をしたかったのである。

チョットこの辺でコーヒーでも♪

私はよくコーヒーを飲むが、生徒達にはこんな話をする。
誰でも同じかも知れないけど、我々が一枚の絵を描いて、そのどれもが改心作とはならない。
筆を執るまでの意気込みが、描き終わると何処へやらで見るも無残で不本意な出来でガッカリする。
けど、何枚かの中には我ながら良く描けたと思えることがあるはずで、そんな時はその改心の作品を”額縁”に入れて壁に飾るといい。誰に見せる訳でも無く頑張った自分へのほうびでもよいのだ。そして、誇らしげに額縁に納まった作品を眺めながら美味しいコーヒーでも入れて飲めばいい。
上達への欲は際限がない。それはそれとして今その瞬間が至福の時と思えるような、そんな絵の描き方をする事が大事ですよと云う。そうすれば又次も頑張ろう!という気持ちになるはずである。楽しんでやらなければ趣味であってもつまらない。誰の為でもなく自分自身の為に描くのである。それは筆者とて同じ事で、楽しくなければ40年も絵など描いてはいない。
洋画界の大御所「梅原龍三郎」は絵を描くときは子供がかんしゃく玉を投げつけるあの感触の様な気持ちだと語っている。難しい理屈や他人の目などどうでも良くて、要は何かに没頭出来た「時」が持てればそれでよいのではないだろうか。全ての基本はそこにあると私は思う。
お互いにたまには美味しいコーヒーを飲みたいものである。

  人見るも善し 見ざるもよし されど我は咲く成り

■名前と作品が独り歩きする■

ある人から聞いたこと。                                        その人は私の作品を1点所有しているが、その人が近所の知人から、こんなことを言われたと言う。
「あなたが今飾っているこの絵と良く似た水彩画を描く人がお客さんに居る」一瞬私のことかと思ったが、どうやらその人は花屋さんで、私には心当たりがない。誰のことかと詳しく聞くと、大勢いる生徒さんの中の一人が描いた作品であることが解かった。小さな一枚の絵を見て、はっと気付いたその花屋さんの観察力の凄さに驚くと同時に、私の透明水彩画を門下にまで影響を及ぼし評価されることの責任のようなものを改めて強く感じたのである。                                                広い世間で絵を描く人や愛好家は数多いが、私の作品を所有している人とは直接なんの繋がりも無い人を介して、
別な処で結びつく事はめつたに無い(私が有名な絵描きであれば別だが(笑)狭いこの美術界のことで、噂は色々と飛び交うことは承知してい.るが、一般となれば私が絵描きであることも知らない人の方がはるかに多い。恐らく隣の人も私が何者か知らないだろう(笑)                                 また別の話しになるが「実は先生の作品を数点持っています」と言う人に出会うこともある。勿論初対面である。どんなルートか知らないが、作品だけが手元を離れて動いていることもある。不特定多数の人々に作品を含めて(自分を)公開していると、気の抜けない毎日でもある。そんなときふと昔のように気侭に好きな絵を描いていた時代がある意味で懐かしく思ったりもするのは、贅沢なことなのだろうか?
とんな分野や世界でも「内と外」とがあるのはやもうえないことで、凄い部分もあれば、くだらないこともまた沢山ある。幾らかの責任を”バネ”とするのか、それとも”足かせ”にするのか。その度量までが問われる世界である。生きる為にと相反する事を常に意識しながら、現実と理想の狭間で自分らしくあり続けたい。何処でどんな噂が(善かれ悪しかれ)飛び交っても、それが最後は自分に帰ってきても、胸張って「その通りです」と応えられるようでありたいと思う。

■枯れた味わい■

別項でも少し書いたが、水彩画の大きな魅力に速写、軽妙、筆致の味というものがあって、よほどの修練を積まなければ出したくても出せない枯れた技(味)がある。その時一枚の紙に無欲で留めた「思いの記録」と思うのが難しい。枯れた線とか、味わいなどというものは技術もさることながら、長い人生経験に裏づけされた”年輪”のようなものが滲み出る。それはどうしても「歳の数」依るもので、故に容易に到達できず真似がし難い。
勿論若ければ若いなりの元気の良さも当然ある。だが「枯れた味わい」のそれは一本の線ですら違うのである。
その違いを埋める作業は生きた年数を重ねる以外にないと思ったりする。
水の仕事(お水の世界ではない(笑)は特に筆致に描き手の息吹が現れるのである。

初心者で絵など全く描いたことの無い年配の人が、驚く様な真似の出来ない良い絵を描かれる場合がある。
気負いも緊張感も無いその画面に魅了されるのは一体どういう事なのか?
なまじ絵描きの端くれが描くことが出来ないもの・・・これはどうやら理屈や技術を越えた処に潜んでいる素の人間(人格)という領域なのかもしれない。人間枯れ落ち葉になるのは情け無い話だが、精神の深さは年齢と共に程燻し銀のような風合いとなって現れる。当然筆者如きの稚拙の者にはまだまだ到達出来ない画境ではあるが、出来得るなら将来そのような一枚が描ける様に精進したいと念願している。                     「歳は美しく取りたい」無駄な欲を捨て去り、ひょうひょうとして軽妙に、それはなにも絵描きでなくとも誰もが望む人生の理想かもしれないなどと思う昨今なのである。

■水彩画の寿命■

アルタミラの洞窟壁画から始まって、果ては我が子の落書きまで、世に人の手で描かれ創り出された物(作品)には 寿命が有るのだろうか?と考えたことがある。絵描きたるもの自分の描いた作品が何時ま 保存に耐えられるかが気になるところでもある。油絵、日本画の様な強靭な画面とは言い難い紙に描かれるのが水彩画で、とにかく描く基盤が紙故になんと言っても劣化しやすい。絵の表に特別な意図が無い限りは皮膜を施すことも殆どない。その画面は空気にさらされ、光線を浴びながら微妙に変化を起こすことはほぼ間違いがない。
私はあるとき、とある大手の絵の具メーカーに絵の具の耐久性についても尋ねてみたことがある。そのメーカー曰く、色は通常の状態で100年は保証出来るが、その後は何とも言えないとのことだった。つまり過去のデーター自体がが無いのである。色によってわずか数年で退色現象が起きることもある。
また紙については、一部の水彩紙を除いて、表面が”焼ける”ことはほぼ間違いない。或いは保存状態によってカゼを引く(カビが生える)ことも予想される。自然素材のコットン・パルプ等が主たる原材料の紙は湿度等に非常に弱い。最近では中性紙の開発により紙質の劣化を防ぐ製品も売り出されてはいるものの、他の美術品(絵画)に比べると劣化のスピードはきわめて早いと考えられる。
本来美術品と呼ばれるものはデリケートなもので、内、外的に敏感で環境に弱い。仕上がった時点からすでに消滅の方向へと向う宿命を背負っていると言っも過言ではないのかもしれない。自分が死んだ後も、作品だけはどこかに残っている・・・良いのか悪いかは別としても、出来るなら後世までも無事に残って欲しいと願うのは生みの親たる描き手の当然の想いである。
画材の進化は昔と比べれば、人間の寿命が年々伸びるのと同様に、品質も良くなったと考えられるものの、それでも永久に残ることは考えにくい。偶然に発見されたミイラや壁画の様に、現代技術の粋を集めて保存修復を施して自然にもさらさず、人目も届かない地下深くの処に仕舞いこめば別かもしれないが・・・それでは本来の美術品の目的が違ってしまう。ではどうすれば良いのか?                                  
                                                   一般的な作品の安全な保存策を記すとおおむね次の様になる。
①絵の具の退色度数の違いに注意する(メーカーによって異なる)
②水彩紙の原料がラグ(綿ボロ)、麻、コットンが100%の中性紙をなるべく使って紙質の劣化を防ぐ。
 (美術系関連の紙は最近急速に中性紙化がすすめられている)
③もし作品を額装する場合には、中性紙マットを使用し直接糊付けしない(△コーナーで止める)
(出来れば額の裏ベニヤに当たる部分も厚い中性紙を当て、作品をはさみ、周囲をテープで包むとよい)
④スケッチブックで保存する場合、作品が完全に乾燥させてから閉じる。作品の間に中性の紙を挟む。
尚、絵画全てに共通するが、温度、湿度、紫外線等によっては結露・カビの繁殖・色の退色・紙の伸縮の原因となるので直射日光・蛍光灯などが直接あたらない暗室に保管し定期的に風を当てる(虫干しする)のが理想的。

死んだ後までとは言わないまでも、自分がが描いた作品は何等かの形で残ると思えば「後は知らない」とも言えないのではないだろうか?例えば、昔まだ若かりし日に描いた作品を久し振りに引っ張り出して見てみると・・・ 観るも無残な姿に。真っ赤な薔薇がピンクに変貌していたり、紫がブルーに退色し、白い紙が焼けて雪の雪原が
砂漠の様に黄ばんでしまっていたでは、洒落にもならないが充分考えられるのである。
とはいうものの、そこまで考えて描くほどの作品がはたして描けるかどうかの方がまづ問題だが(笑)
私の言いたいのは、そんな敏感な水彩画の作品である故に大切に扱いたいし、そのこと自体も絵を描く事の一部分であることから、あえて水彩画の危険性を概略少し取り上げてみたのである。
和紙に墨の仕事は年数が経てば、逆に墨色が落ち着き深味を増すとも言う。同様に別な意味からすれば、その様な風化する歴史を背負ったものが「作品」と考えるならむしろ、消滅へと向かうのは自然な姿なのかもしれないとも思う。もし自分が精魂込めて描いた作品であるなら、後の事はともかくとしても、我が分身の子供の様に思って当然で、それがもし描いた(産んだ)後はシランでは、子供に愛情が注ぎ込めないのが道理で、その子の行く末を思うのが親の責任である。だがこんな古い考え自体が通用しないのも事実かもしれない。